初夏
木々の葉色はすっかり濃い緑色に変わり、空気は溢れんばかりの潤いに満ちている。 昔なら、なみなみと水をたたえ、まるで鏡のように雲や月を映していた田んぼも、稲苗が背丈を伸ばして緑色に染まっていく。 日本中、いたるところにこうした田んぼが広がっていた時代には、一年を通じて誰もが知らず知らずのうちに、稲が実りを迎えるまでの道のりを眺めて歩く日々があった。 単に美しい田園風景というだけでなく、一年という時間軸で物事を眺める機会がどこにでもあった。 そう考えてみると、現代に生きる私たちの日々の拝啓にはどんなものが流れているのだろう。 街の中の街路樹や公園の緑は昔と変わらないように見えるが、皆が同じような暮らしをして同じテレビ番組を見ている時代はすでに過ぎ去り、好みのSNSやYouTubeをいつでもどこでも眺める時代である。 しかも新型コロナにより自分の生き方を大事にしていこうという風潮は強い。 好きなものに囲まれて暮らしていこうという流れは加速している。 自由に好きなように暮らせる社会は素晴らしいが、世界は狭くなる可能性もある。 便利なものを楽しみつつも、気ずかぬうちに世界観が小さく、ましてや偏狭なものにならぬように心を配り、広く深く本当に自由でいるための工夫を自分が忘れないように願っている。 現在のテレワーク等は、パソコンなど機械の画面と音声だけでは、相手の雰囲気や様子など、細かい気配まで感じるのは難しい。 人間は感覚を総動員して生きているのだ、という当たり前の事実にあらためて向き合うことになる。 目は、姿かたちだけを見るだけでなく、表情から雰囲気や様子、気持ちを汲み取っている。 香りはその場の印象を変えてしまう様な力を持っているが、鼻はそれを嗅ぎ分ける。 また耳は音のみを聞いているだけでなく、反射音や空間のかたちを読み取っているという。 人間の感覚は瞬間的にいくつも総動員して、場を理解していく。 こんなにんげんの感覚を網羅するテクノロジーは現れるのだろうか。 疲れが溜まった時はやはり、昔ながらのやりかたに戻り休息する。 近距離のものばかり見がちな日々の生活だが遠くを見るとほっとする。 季節は夏に向かって晴れ晴れとした夜空がひろがってくる。 時空を超えて、過去から放たれた光を浴びて、無限を眺める季節がもうすぐ来る。
JO