東京丸の内

先般、コロナウイルスワクチン接種で東京丸の内へ出掛けた。 丸の内にはコンサートを聞きに来て以来なので数年ぶりである。 丸の内は近年は高層ビル群に囲まれたオフィス街だが、以前は美観地区としてビルの高さは31mに指定されていた。 基準が変わって180mの丸ビルができて現在の景観になった。 「歴史366日」によると1891年5月28日付の「時事新報」にこんな記事が出ているそうだ。 「丸の内なる陸軍部内に係る諸建物は市区改正設計のため、さきに岩崎弥之助氏が一手に払い下げをなしてことごとくこれを取り壊したれば、数寄屋橋内より竜の口(大手町界隈)あたりまで一目に見渡すほどの一大原野と変じたれば、諸管省の官史退散後は往来の者少なく殊に夜分の如きは四辺寂しとしてなんとなく物凄く婦女子は到底通行も成り難き有様となりたり。」 丸の内という地名の「丸」は、城郭を指す「曲輪(くるわ)」と同じ意味だ。 この地域が江戸城の外濠の内側にあるから丸の内となったらしい。 明治維新まで丸の内あたりは大名屋敷が多くあったが1872年3月の火災で京橋、銀座にかけて約5000戸が燃えてしまった。 その後、陸軍が使用して皇居を守る近衛連隊が使用していたが1889年に憲法が生まれ、丸の内を市街地にする計画が告示され、当時の金額で百五十万円で売りにだされたが、当時は土地の利用価値が低いとみられていて買手がみつからなかった。 政府は大蔵大臣松方正義を通して、三菱社長の岩崎弥之助に買ってくれと申し入れ、岩崎は申し入れを承知したが、即金は無理なので13カ月間に8回に分けて支払った。 当時、この岩崎の英断に社内からも非難が出たという。 岩崎は「竹でも植えて虎でも飼うさ。」といったという話しが伝わっている。 東京駅はまだ影も形も無い時だある。 1923年2月にこの原野に丸ビルがうまれた。 そして関東大震災にも耐えた、丸ビルが80年後に解体された時、土台として支えた直径30cm、長さ15mのアメリカ・オレゴンの松丸太5,443本が堀り出された。 この丸太に腐食はなく、一部が山梨の家具職人に引き取られベンチや積み木に生まれたらしい。 又、丸ビル近くにも丸太の面影を残したベンチが置かれているらしい。 次回はこのベンチを捜してみよう。

JO