忠臣蔵

今年は色々な行事が中止になる中、12月14日は日本人が好きな物語の一つ、忠臣蔵の義士祭だが今年は早々に中止が決定されていた。 大石内蔵助、以下47士がみごと主君、浅野内匠頭長矩(あさのたくにかみながのり)の仇討を果たし、忠節を示した「忠臣蔵」。 この物語はいまでも多くの人達の心をとらえている。 47士が吉良上野介義久(きらこうずけのすけよしひさ)の屋敷に討ち入ったのは、旧暦1702年(元禄15年)12月14日から15日未明のこと。 ただし、新暦に直すと1703年1月30日になる。 300年以上も前の話しだ。 47士が眠る東京品川の泉岳寺は1612年、徳川家康が桜田門外に創件建したが、寛永の大火によって焼失し現在の場所に移った。 毎年12月14日には「義士祭」が行われるが、今年は無い。 今は、両国駅近くにあった吉良邸は、両国3丁目に約2,600坪の屋敷だったが、今は本所松坂町公園として整備され、井戸や吉良家の家臣20士をまつった祠等も残っている。 浅野家は現在の中央区明石町、聖路加国際病院とその周辺一帯に約8,000坪もの広大な敷地であった。 47士は討ち入り後、隅田川にかかる永代橋を渡って泉岳寺まで行き、浅野内匠頭長矩の墓前に吉良の首を供えた。 47士はその後、翌年2月4日に全員が切腹し、泉岳寺に埋葬された。 この事件は「忠君の鑑」として、江戸中で評判となり、翌年1703年には早くも劇化上演されている。 今では「仮名手本忠臣蔵」として「菅原伝授手習鑑」、「義経千本桜」とともに人形浄瑠璃の名作といわれ、これまでに何度もドラマ化、映画化されていることから日本人の好む物語の一つといえるだろう。

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