戸塚上倉田遺跡 横浜
11月30日新橋で学生時代所属していた考古学研究会のOB会に参加した。その学校、M学院は明治10年に東京に移転するまでは横浜の居留地にあった。幕末生麦事件の被害者が運び込まれた診療所の医師ヘボンが作った学校で、横浜のF女子と同じ流れである。
M学院には歴史系の学科は存在しないのだが、考古学研究会は猛者が多数所属するおっかないクラブだった。法律、経済、社会福祉、仏文なんていうのも所属していて歴史とは全く関係ない学生ばかりであった。先輩は職人気質のおっかない先輩ばかりだが、全員が畑違いであったからこそ風通しはずば抜けていいクラブだった。
大学1年の時にM学院が横浜に校舎を建てることになり、工事を始めると、遺跡が出たのである。遺跡がでると工事を中断し遺跡調査をする事が法律で定められている。考古研はその前から神奈川県立博物館の考古学教室の先生を師匠としていたので、大倉山の師岡貝塚や桐蔭学園の建設現場などで遺跡調査の実績があった。ちなみにマルタから見える三枚町の県営住宅も建設前に私達が調査した遺跡である。そこでわがクラブが調査員として参加することになったのである。その遺跡名は戸塚上倉田遺跡と名付けられた。そのお話はまた次回。 田代