芸術するこころ

急に秋が来たような陽気だ。 秋と言えば色々あり、何でも手を出したくなる。 でも自分は特に芸術に興味が湧く。 先人たちの芸術にたいする’こころ’は何処にあったのだろう。 松尾芭蕉は俳として、良寛は沙門の徒として、その生を意義あるものとするために、日々を大切に忠実に生きた人たちであり真実を求め、悟りに達することにこいねがった。 画壇の潮流から離れ独り孤高の画境を求めた村上華岳は次のように語っている。 芸術とはなんでしょう。 私は知りません。 私にはこの頃また、すっかり解らなくなってしまいました。  しかし、私にとって画家であることなどどうでもいいのです。 私は画家として生まれたわけでもなければ、画家であれと命令されてもいません。 画家であるよりも或いは宗教家であるよりも前に、なによりも前に私は人間でありたいと思います。 華岳は画家として迷い、人間として苦悩、模索した結果、心象としての暖かさが広がってゆく作品にひたむきな姿が浮かんでくるのだ。 また、岸田劉生は「美術論」の冒頭にこう書いている。 美とはなにか? 美術とは造化の最後の、そして最高の匠みなるこの世界の装飾である。 人間の心も人力もその業も造化の一つの表れと見ることができる。と語っている。 つくずく人間とは不思議な動物なのである。 だから生きる。

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